ゴーストトリックを購入する覚悟が数昨日前にようやっと固まったので、さっそく明日買ってきます。
話は変わるが、あれだな、レイアウトの綺麗なサイトを見てると、どうしても中編とかを書きたくなる。専用ページが作りたくなるんだなきっと。
でも中編を書き始められる度胸も書き終える腕も私は持ち合わせていないのである。今も昔も。
近頃語彙が極端に少なくなってきたのが分かります。単語はともかく表現が、ちょっと。
台詞を繋げるのが致命的に苦手な私にとって、これは流石に辛いものがある。
やっぱり教科書でも説明書でも流し読みするのはいけないな。どんなものでも文章はきちんと読み込まなければ。
話は変わるが、あれだな、レイアウトの綺麗なサイトを見てると、どうしても中編とかを書きたくなる。専用ページが作りたくなるんだなきっと。
でも中編を書き始められる度胸も書き終える腕も私は持ち合わせていないのである。今も昔も。
近頃語彙が極端に少なくなってきたのが分かります。単語はともかく表現が、ちょっと。
台詞を繋げるのが致命的に苦手な私にとって、これは流石に辛いものがある。
やっぱり教科書でも説明書でも流し読みするのはいけないな。どんなものでも文章はきちんと読み込まなければ。
/ 21:30 /
それはそうと、最近またネガティブの波が精神を圧迫し始めています。
嵌まっているものが特に見当たらないから特になりやすいんでしょうか。
自分のことより他人のことが心配になって悩んでしまうのは、良いことなのか悪いことなのかどうなのか。会ったことも話したこともない人のことならなおのこと。
テレビの向こうの人のことで、どうしてこんなに心が圧迫されているのか。
世の中には良い話もあれば悪い話もある。
自分の考えと誰かの考えは違うのに、誰かの考えに自分の考えが左右されて、どうしたらいいか解らなくなってくる。
それが悪いものならなおさらに。
良いことより悪いことの方が数倍印象的に聞こえる。痛烈に残る。痛みとして、あるいは眩みとして。
私はその傾向が人一倍強いんだろう、たぶん。
今日友達に「どうしてその人が好きなの?」と言われて、一つしか理由を上げられなかった。
でもその一つが、私を何度も立ち上がらせてくれる理由でもあるからこそ。
依存とは違うと断言できますが。
生きていく上での心構えだとか、立ち向かう上での覚悟だとか、そういった"心"を教えてくれる人でもある。
批判はやっぱり哀しいことですが、仕方がないと思う自分もまたおかしいと思ってしまいます。
だってその事柄に関して、私は正解と不正解の違いも分からない。
とりあえずは、心の持ち様なのだと考えることにしています。
批判をそのまま受け入れるか、反抗するか、あるいは受け流すか。
自分が反抗できない性質なのは、重々分かっているつもりなので――他人の意見を「それもそうだな」と理解してしまうような、そんな性質なので。
(だからこそ批判も「仕方ない」と思うんだろう。理由もよく解るし)
「それでも私にとって、あの人の言葉は勇気や力をくれるものなんだ」と、そう考えることにしました。
他人の意見と自分の意見は違う。
同じ想いを共有できないのと同じように。
違う想いが重なるからこそ、そこに新しい何かが生まれる。
他人に左右されることなく、自分の想いを持っていけたらと、強くそう願っています。
***
文章としてまとめたら、なんだか心がほっとしました。
自分はこんなことを思っているんだなと。
普段思っていることをあまり人前で口に出さない、出せない性分なので、ときどきはこういう――誰の声も気にすることなく自分の内を綴る――機会が必要なのかもしれません。
もしこの文章を読んで気分を悪くされた方がいらっしゃいましたら、それは謝ります。すみませんでした。
気がついたらずいぶん長くなってしまったので、文章が暗いのもありますし、これは続きに仕舞っておこうと思います。本当は非公開にしてもいいのかもしれませんが、決意の表れとして。
どこか一部分でも共感してくださる方が居れば、幸いです。
嵌まっているものが特に見当たらないから特になりやすいんでしょうか。
自分のことより他人のことが心配になって悩んでしまうのは、良いことなのか悪いことなのかどうなのか。会ったことも話したこともない人のことならなおのこと。
テレビの向こうの人のことで、どうしてこんなに心が圧迫されているのか。
世の中には良い話もあれば悪い話もある。
自分の考えと誰かの考えは違うのに、誰かの考えに自分の考えが左右されて、どうしたらいいか解らなくなってくる。
それが悪いものならなおさらに。
良いことより悪いことの方が数倍印象的に聞こえる。痛烈に残る。痛みとして、あるいは眩みとして。
私はその傾向が人一倍強いんだろう、たぶん。
今日友達に「どうしてその人が好きなの?」と言われて、一つしか理由を上げられなかった。
でもその一つが、私を何度も立ち上がらせてくれる理由でもあるからこそ。
依存とは違うと断言できますが。
生きていく上での心構えだとか、立ち向かう上での覚悟だとか、そういった"心"を教えてくれる人でもある。
批判はやっぱり哀しいことですが、仕方がないと思う自分もまたおかしいと思ってしまいます。
だってその事柄に関して、私は正解と不正解の違いも分からない。
とりあえずは、心の持ち様なのだと考えることにしています。
批判をそのまま受け入れるか、反抗するか、あるいは受け流すか。
自分が反抗できない性質なのは、重々分かっているつもりなので――他人の意見を「それもそうだな」と理解してしまうような、そんな性質なので。
(だからこそ批判も「仕方ない」と思うんだろう。理由もよく解るし)
「それでも私にとって、あの人の言葉は勇気や力をくれるものなんだ」と、そう考えることにしました。
他人の意見と自分の意見は違う。
同じ想いを共有できないのと同じように。
違う想いが重なるからこそ、そこに新しい何かが生まれる。
他人に左右されることなく、自分の想いを持っていけたらと、強くそう願っています。
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文章としてまとめたら、なんだか心がほっとしました。
自分はこんなことを思っているんだなと。
普段思っていることをあまり人前で口に出さない、出せない性分なので、ときどきはこういう――誰の声も気にすることなく自分の内を綴る――機会が必要なのかもしれません。
もしこの文章を読んで気分を悪くされた方がいらっしゃいましたら、それは謝ります。すみませんでした。
気がついたらずいぶん長くなってしまったので、文章が暗いのもありますし、これは続きに仕舞っておこうと思います。本当は非公開にしてもいいのかもしれませんが、決意の表れとして。
どこか一部分でも共感してくださる方が居れば、幸いです。
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